|
|||||||
まず強烈な反戦映画だ、とだけは無条件でいえる。 イスラム圏との戦いが跋扈する昨今、まず何よりも、この映画から反戦性を感じる。 しかし、反戦がこの映画の主題ではない。 愛の残酷さを描いて鋭いものがあり、やはり星を献呈せざるを得ない。
幸せな家庭生活をいとなむミカエル(ウルリッヒ・トムセン)は、デンマーク軍の少佐で、職業軍人だった。 彼は多国籍軍の一員として、アフガニスタンへの出兵を命じられる。 しかし、アフガニスタンに着くやいなや、乗っていたヘリコプターがアルカイダに撃墜されて、彼は捕虜になってしまう。 生存者が確認できないことから、本国へは死亡したと報告される。 映画は、本国の彼の家庭の様子と、捕らえられたミカエルの様子を、交互に描きながら進行する。 妻のサラ(コニー・ニールセン)の悲しみ、落胆、そして、克服。 彼女は弟のヤニック(ニコライ・リー・コス)の助けを借りながら、ゆっくりと立ち直っていく。 アルカイダは、ミカエルにニルスを殺せと命令する。 もちろん彼は抵抗する。 しかし、抵抗できなくなって、とうとうニルスを殺してしまう。 上官である彼は、ニルスに妻子がいることも知っており、救出が来るといって兵士であるニルスを力づけていた。 にもかかわらず、殺してしまうのだ。 誤解のないように言っておきたいのだが、 ミカエルは死の恐怖に耐えられずに、ニルスを殺したのでもないし、自分が助かろうとして殺したのでもない。 もちろん死は恐い、恐ろしい。 しかし、死の恐怖が、ニルス殺しの動機ではない。 では、なぜ彼は部下を殺してしまうのか。 映画の冒頭で、ミカエルがいかに妻のサラを愛しており、2人の娘を愛しているかが、草むらに託されて丁寧に描かれる。 そして、彼の愛は強固であり、永遠のものだ、と強調される。 ニルスにだって、愛する妻と生まれたばかりの愛おしい子供がいる。 その彼が、同じ境遇にあるニルスを殺してしまうのだ。 ニルスを殺した後、ミカエルは救出されて本国へ戻るが、すべてが変わってしまった。 平和な家庭に馴染めずに、子供たちを叱りとばす。 サラとヤニックの仲が良いのを妬む。 あげくの果てには、サラに暴力をふるい、警察に捕まり、実刑に処されてしまう。 愛する妻子のもとへ生きて帰るために、同じように妻子のある部下を殺さざるを得なくなり、殺してしまう。 何という厳しい映画だろうか。 近代家族は経済性や役割ではなく、愛だけが家族をつないでいると言っても良い。 その愛を貫くために、味方を殺すのだ。 つまり愛を守るために、味方の兵隊を殺す。 恐ろしい主題である。 この映画は、近代の核家族が愛によって結びついていることを知っている。 家族への愛を貫いた結果、彼は味方を殺した罪悪感にさいなまれる。 捕虜になって、士官が部下を殺したなど、誰にもいえない。 一度は、告白しようと、上官に会いに行く。 しかし、上官はすべてを飲み込んで、告白を押しとどめる。 何の問責もしない。 味方の殺害は、本来は軍事裁判にかけるのだが、問責してしまっては映画が話にならない。 妻であるサラも告白を求めるが、妻は平時の人だ。 妻にいっても、理解されるわけがない。 彼はますます苦悩する。 その心が画面から痛いほど伝わってくる。 愛を守るために味方を殺すとは、一体どういうことだろうか。 家族こそ愛の憩いの場であり、愛を育むのが家族だったはずである。 前近代の家族が、生きるために愛情とは関係なく結婚したのに対して、近代家族の成立は、何よりも愛による男女の結びつきだった。 大家族は、結婚と愛情は関係なかったから、政略結婚もあったのだし、家を存続させるために伴侶を決めたのだ。 しかし、近代の核家族は違う。愛だけが家族を結びつけている。 この監督は、すでに近代が終わっていることに、きわめて自覚的である。 近代にはいるとき、人間はみな平等だといった。自由・博愛・平等の支配するのが、近代社会である。 平等だから、誰でもが愛にしたがって結婚でき、家族生活を営むことができる。 しかし、その家族愛を貫こうとすると、自由・博愛・平等と衝突するのだ。 ミカエルは職業軍人であり、士官として戦場にでる以上、死の覚悟をしているはずだ。 役割に生きていた時代なら、ミカエルは名誉を守って黙って死を選んだだろう。 かつては生命以上に大切だったものが名誉だった。 名誉を守るのが、武士や士官の生き方だった。 この映画でも、子供たちに軍人は死の覚悟があるだろう、と語らせている。 しかし、近代の核家族では、妻への愛があるがゆえに、死んではいけないのだ。 巷間では愛は甘美なもの、素晴らしいものと、謳われる。 名誉と愛を秤にかければ、愛に傾くのが近代である。 名誉を守るために、殺人を犯すなど、今では狂気の沙汰である。 イスラムの名誉殺人を、先進国の人たちは口を揃えて非難する。 しかし、近代社会の愛も、愛を守るために人を殺すのだ。 捕虜になったとはいえ、士官であるミカエルが、味方の兵士を殺すのは、当然に非難される。 それは敗戦時に、日本陸軍の将官が自分だけ逃亡したと非難されたの、と同じである。 士官が頑張らないで、軍隊組織が成り立つわけがない。 そのために、士官には指揮権が与えられ、高給が支払われている。 しかし、この映画では、それには触れない。 彼等だって死への恐怖があっただろうが、それ以上に名誉や、自然観が死の恐怖を中和していた。 ミカエルの立場に置かれたら、タリバンの指揮官は名誉を重んじ、死を選ぶかもしれない。 それに仲間が、主なき家族を守ってくれると信じているかも知れない。 「アフター・ウェディング」では、ヨルゲンに死への恐怖を語らせたが、今回はそれにも触れない。 平時のデンマークと、戦場のアフガニスタンと、映画は時間の進行を、同時平行的に描いていく。 そのなかで、愛を貫くために、ミカエルに味方の殺人をえらばせる。 その科白が二度くり返される。 愛が殺人を犯すという主題だけが、今回の映画では鮮明に展開されている。 これは彼女が、近代の終焉を自覚しているから、可能になる主題である。 「しあわせな孤独」でも、近代の愛の厳しさを描いていたが、この映画でほぼ結論がでたようだ。 名誉などに殉じたら、タリバンと同じではないか。 愛は女々しくみえるかもしれないが、愛も人殺しをするのだ。 名誉や組織の規律を守ることより、愛を貫くべきだ、といっているように見える。 「アフター・ウェディング」ではヨルゲンに、妻の膝に泣き崩れさせ、この映画ではミカエルにサラの隣で泣き崩れさせる。 男子たるもの強くなくても良いのだ。愛は残酷だが、それでも愛に殉じて良いのだ。 愛の残酷さを、女性も引き受ける。 これが監督の主張だろう。 眼玉のアップが、何度かくり返されていたが、これはよく効いていた。 また、全体に科白が抑えられており、画面で伝えるという映画の原則がいきていた。 しかし、「ドグマ95」の手法を守っているせいか、ライティングが不足しており、画面が美しいとはいえなかった。 蛇足ながら、デンマークの刑務所は公園のようで、芝生の敷地内にベンチがあり、他には誰もいない。 面会に行ったサラはミカエルと、広い芝生のなかのベンチで語り合う。 我が国の刑務所とはずいぶんと違う。 原題は「Brother」であり、弟のヤニックが重要な役回りを果たしている。 2004年のデンマーク映画 (2007.12.04) |
|||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||||
|