タクミシネマ        ある愛の風景

☆☆ ある愛の風景   スザンネ・ビエール監督

 まず強烈な反戦映画だ、とだけは無条件でいえる。
イスラム圏との戦いが跋扈する昨今、まず何よりも、この映画から反戦性を感じる。
しかし、反戦がこの映画の主題ではない。
愛の残酷さを描いて鋭いものがあり、やはり星を献呈せざるを得ない。

ある愛の風景
公式サイトから

 幸せな家庭生活をいとなむミカエル(ウルリッヒ・トムセン)は、デンマーク軍の少佐で、職業軍人だった。
彼は多国籍軍の一員として、アフガニスタンへの出兵を命じられる。
しかし、アフガニスタンに着くやいなや、乗っていたヘリコプターがアルカイダに撃墜されて、彼は捕虜になってしまう。

 生存者が確認できないことから、本国へは死亡したと報告される。
映画は、本国の彼の家庭の様子と、捕らえられたミカエルの様子を、交互に描きながら進行する。
妻のサラ(コニー・ニールセン)の悲しみ、落胆、そして、克服。
彼女は弟のヤニック(ニコライ・リー・コス)の助けを借りながら、ゆっくりと立ち直っていく。

 捕虜になったミカエルのもとには、同じデンマーク人の通信兵ニルスが収容されていた。
アルカイダは、ミカエルにニルスを殺せと命令する。
もちろん彼は抵抗する。
しかし、抵抗できなくなって、とうとうニルスを殺してしまう。
上官である彼は、ニルスに妻子がいることも知っており、救出が来るといって兵士であるニルスを力づけていた。
にもかかわらず、殺してしまうのだ。

 誤解のないように言っておきたいのだが、
ミカエルは死の恐怖に耐えられずに、ニルスを殺したのでもないし、自分が助かろうとして殺したのでもない。
もちろん死は恐い、恐ろしい。
しかし、死の恐怖が、ニルス殺しの動機ではない。
では、なぜ彼は部下を殺してしまうのか。

 映画の冒頭で、ミカエルがいかに妻のサラを愛しており、2人の娘を愛しているかが、草むらに託されて丁寧に描かれる。
そして、彼の愛は強固であり、永遠のものだ、と強調される。
ニルスにだって、愛する妻と生まれたばかりの愛おしい子供がいる。
その彼が、同じ境遇にあるニルスを殺してしまうのだ。

 ニルスを殺した後、ミカエルは救出されて本国へ戻るが、すべてが変わってしまった。
平和な家庭に馴染めずに、子供たちを叱りとばす。
サラとヤニックの仲が良いのを妬む。
あげくの果てには、サラに暴力をふるい、警察に捕まり、実刑に処されてしまう。

 愛する妻子のもとへ生きて帰るために、同じように妻子のある部下を殺さざるを得なくなり、殺してしまう。
何という厳しい映画だろうか。
近代家族は経済性や役割ではなく、愛だけが家族をつないでいると言っても良い。
その愛を貫くために、味方を殺すのだ。
つまり愛を守るために、味方の兵隊を殺す。
恐ろしい主題である。
この映画は、近代の核家族が愛によって結びついていることを知っている。

 家族への愛を貫いた結果、彼は味方を殺した罪悪感にさいなまれる。
捕虜になって、士官が部下を殺したなど、誰にもいえない。
一度は、告白しようと、上官に会いに行く。
しかし、上官はすべてを飲み込んで、告白を押しとどめる。
何の問責もしない。
味方の殺害は、本来は軍事裁判にかけるのだが、問責してしまっては映画が話にならない。


 妻であるサラも告白を求めるが、妻は平時の人だ。
妻にいっても、理解されるわけがない。
彼はますます苦悩する。
その心が画面から痛いほど伝わってくる。
愛を守るために味方を殺すとは、一体どういうことだろうか。
家族こそ愛の憩いの場であり、愛を育むのが家族だったはずである。

 前近代の家族が、生きるために愛情とは関係なく結婚したのに対して、近代家族の成立は、何よりも愛による男女の結びつきだった。
大家族は、結婚と愛情は関係なかったから、政略結婚もあったのだし、家を存続させるために伴侶を決めたのだ。
しかし、近代の核家族は違う。愛だけが家族を結びつけている。

 この監督は、すでに近代が終わっていることに、きわめて自覚的である。
近代にはいるとき、人間はみな平等だといった。自由・博愛・平等の支配するのが、近代社会である。
平等だから、誰でもが愛にしたがって結婚でき、家族生活を営むことができる。
しかし、その家族愛を貫こうとすると、自由・博愛・平等と衝突するのだ。

 ミカエルは職業軍人であり、士官として戦場にでる以上、死の覚悟をしているはずだ。
役割に生きていた時代なら、ミカエルは名誉を守って黙って死を選んだだろう。
かつては生命以上に大切だったものが名誉だった。
名誉を守るのが、武士や士官の生き方だった。
この映画でも、子供たちに軍人は死の覚悟があるだろう、と語らせている。
しかし、近代の核家族では、妻への愛があるがゆえに、死んではいけないのだ。

 巷間では愛は甘美なもの、素晴らしいものと、謳われる。
名誉と愛を秤にかければ、愛に傾くのが近代である。
名誉を守るために、殺人を犯すなど、今では狂気の沙汰である。
イスラムの名誉殺人を、先進国の人たちは口を揃えて非難する。
しかし、近代社会の愛も、愛を守るために人を殺すのだ。

 捕虜になったとはいえ、士官であるミカエルが、味方の兵士を殺すのは、当然に非難される。
それは敗戦時に、日本陸軍の将官が自分だけ逃亡したと非難されたの、と同じである。
士官が頑張らないで、軍隊組織が成り立つわけがない。
そのために、士官には指揮権が与えられ、高給が支払われている。
しかし、この映画では、それには触れない。


 前近代人たちは、たんたんと死を迎えていった。
彼等だって死への恐怖があっただろうが、それ以上に名誉や、自然観が死の恐怖を中和していた。
ミカエルの立場に置かれたら、タリバンの指揮官は名誉を重んじ、死を選ぶかもしれない。
それに仲間が、主なき家族を守ってくれると信じているかも知れない。
アフター・ウェディング」では、ヨルゲンに死への恐怖を語らせたが、今回はそれにも触れない。

 平時のデンマークと、戦場のアフガニスタンと、映画は時間の進行を、同時平行的に描いていく。
そのなかで、愛を貫くために、ミカエルに味方の殺人をえらばせる。
その科白が二度くり返される。
愛が殺人を犯すという主題だけが、今回の映画では鮮明に展開されている。
これは彼女が、近代の終焉を自覚しているから、可能になる主題である。

 「しあわせな孤独」でも、近代の愛の厳しさを描いていたが、この映画でほぼ結論がでたようだ。
名誉などに殉じたら、タリバンと同じではないか。
愛は女々しくみえるかもしれないが、愛も人殺しをするのだ。
名誉や組織の規律を守ることより、愛を貫くべきだ、といっているように見える。

 「アフター・ウェディング」ではヨルゲンに、妻の膝に泣き崩れさせ、この映画ではミカエルにサラの隣で泣き崩れさせる。
男子たるもの強くなくても良いのだ。愛は残酷だが、それでも愛に殉じて良いのだ。
愛の残酷さを、女性も引き受ける。
これが監督の主張だろう。

 眼玉のアップが、何度かくり返されていたが、これはよく効いていた。
また、全体に科白が抑えられており、画面で伝えるという映画の原則がいきていた。
しかし、「ドグマ95」の手法を守っているせいか、ライティングが不足しており、画面が美しいとはいえなかった。

 蛇足ながら、デンマークの刑務所は公園のようで、芝生の敷地内にベンチがあり、他には誰もいない。
面会に行ったサラはミカエルと、広い芝生のなかのベンチで語り合う。
我が国の刑務所とはずいぶんと違う。

 原題は「Brother」であり、弟のヤニックが重要な役回りを果たしている。
 2004年のデンマーク映画
  (2007.12.04)

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