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前作「しあわせな孤独」が、素晴らしいできだったので、この作品も期待して見にいった。 辛口のはずのこのサイトだが、どうしたことだろうか。 好きな映画には、目が曇ってしまうのだろうか。 そんなことはないだろうから、星を献上せざるをえない。 この監督には同時代性を感じる。
デンマーク人のヤコブ(マッツ・ミケルセン)は、インドで孤児院に従事していた。 ある日、同国人の大金持ちヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)が、多額の寄付を申しでてきた。 条件は、面接に来いという。 孤児院を維持するためには、お金は欲しい。 金持ちの我がままといいながら、彼はしぶしぶ故国へと一時帰国する。 ヨルゲンと会うと、ヤコブの事業に寄付しようと思うと言われる。 娘アナ(スティーネ・フィッシャー・クリステンセン)の結婚式に出席するよう誘われた。 強引な誘いに負けて、結婚式に出席すると、 ヨルゲンの妻ヘレン(シセ・バベット・クヌッセン)が、ヤコブの昔の恋人だったことを知る。 ヘレンはインドでヤコブとつきあっていたが、なぜか帰国してしまった。 帰国後に妊娠を知ったが、ヤコブには告げずに、ヨルゲンと結婚したのだった。 ヨルゲンは自分の子供ではないと知ったうえで、ヘレンと結婚し、自分の子供として育ててきた。 そして、双子の男の子をもうけ、事業にも成功して、幸せな日々を送っていた。 そんな結婚式に、ヤコブが登場したのだ。 まずヤコブは、インドで何人かの女性とベッドをともにしており、 ヘレンは最も親しい1人に過ぎなかった。 ヘレンの友人とも寝ていたのだ。 また若かった当時、麻薬にも耽っていたようだ。 にもかかわらず、ヤコブのほうに正義があるように描く。 日本的にいえば、手当たりしだいに女に手をだし、それに愛想を尽かしたヘレンが帰国した。 帰国後に妊娠が判った。 むしろ責められるのは、ヤコブのように感じるが、この監督はそうは言わない。 ヘレンはヤコブを探したが、音信不通で生死が判らなかったと、うなだれて答える。 なぜ知らさなかったのか、とヤコブの言葉のほうを肯定的に響かせる。 娘のアナには、父親は死んだといっていたようで、嘘をついたと娘からも責められる。 これも日本的ではないだろう。 しかも、ヤコブは自分が血縁の父親だと知らせろ、とヘレンにせまる。 ヤコブから伝えるより、ヘレンの義務だという。 この映画の人間関係を見ていると、男女はまったく同じでしかも、胎児には男性も権利があるらしい。 若いときに、異性関係が派手でも、それはお互い様。 麻薬をやるのも個人の責任であり、他人からとやかく言われることではない。 ヤコブのほうにいろいろと問題があっても、それは彼個人の問題である。 アナという別の人格が登場した時には、個人的な問題にはまったく触れられない。 ヤコブを隠していたヘレンのほうに、否があることになってしまう。 しかも、ヨルゲンが多額の寄付をすると言いながら、ヨルゲンとヤコブの立場は対等である。 寄付を受け取ってやると言わんばかりで、むしろヤコブのほうが強い。 資本家を悪く描くのは、ちょっと演出かも知れない。 悪銭を稼いでいるのだから、慈善事業に寄付するのは、天国への切符を買っているのだということかも知れない。 すでにアナの父親が明らかになった後で、 ヨルゲンは慈善財団を設立するので、ヤコブにその役員になって欲しいという。 ヤコブは承諾しようとするが、ヤコブがデンマークに住むという条件が付いていた。 ヤコブは激怒する。この条件をのめなければ、寄付は取消だといわれる。 寄付はのどから手がでるほど欲しいが、ヤコブは席を立ってしまう。 実はヨルゲンはガンの末期だった。 それを知っている彼は、ヘレンやアナ、それに小さな子供たちを、ヤコブに託そうとしたのだった。 しかし、判らないのは、ヨルゲンがなぜヤコブの孤児院を選んだかである。 映画はその部分をまったく説明しない。 ヨルゲンが、すべてを仕組んだと見るのは、無理だと思う。 ヨルゲンの不治の病も、前半では何も触れられていない。 だから、ヨルゲンがヤコブを呼んだ、と考えることはできない。 ヤコブが偶然に登場したので、彼に自分の家族を預けようと、決断したように描いている。 この映画は、家族を舞台にしているが、我が国でいう家族愛を描いた物ではない。 「悲しい現実に直面したある家族の愛と苦悩の物語が」と、ムーヴィー・ウォーカーの見所にある。 しかし、悲しい現実は後から登場するのであり、この見所がいうような家族と愛の物語ではない。 しかも、誰も苦悩していない。 ヘレンはヤコブが表れても苦悩する立場にはないし、悲しい現実に直面したのはヨルゲンだけだ。 ヨルゲンにとって悲しい現実とは、ガンに冒されたことであり、余命幾ばくもないことだ。 ヨルゲンとヤコブは、1人の女性をめぐって、いわば敵対関係にある。 アナとは血縁がない。彼(女)等は家族ではないにもかかわらず、 ヨルゲンはアナとヤコブに、財産のほとんどを残そうとする。 当サイトは、ここに「この森で、天使はバスを降りた」と同質の新しい人間関係を見る。 アナは結婚したものの、父親が登場したので、夫には気が行かなくなっていく。 そんなアナに嫌気がさして、夫ははやくも他の女に手をだす。 ここはちょっと不自然である。 この夫はヨルゲンの部下だったのだから、ヨルゲンの財産を頭の隅に置いていたはずである。 結婚直後に、簡単にバレるような浮気をするはずがない。 アナの夫の浮気を別にすれば、この映画は新たな家族理念に到達している。 48歳で死ぬヨルゲンに、死にたくないと言わせる。 このシーンはいかにもの近代人である。 農耕社会の人々の死生観ではないが、だからこそ孤独が切実である。 神を信じないがゆえに、人間は孤独になってしまったのだ。 孤独な現代人が、自分の意志で、人間関係をきめる。 自分とは敵対関係にある男に、自分の家族を託す。 ここには愛情といえばいえるが、精神だけが支配している関係がある。 裕福になっても、生死だけは意のままにならない。 近代人は世界を創ってきたが、生死はいまだ神の手中にある。 死という不可避の事実を受け止めながら、新しい人間関係を描いて感動的である。 人物を画面の中央におかずに、片方へ寄せて描く。 そして、人物を中央へと動かすときには、何かしらの意味づけをしている。 逆光でトンでいるシーンもあるが、それは余り気にならなかった。 厳しい現代の人間関係を、なお厳しくギリギリと問い続ける監督の持続力には感服である。 2006年のデンマーク映画 (2007.11.08) |
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