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小さな映画だが、力がこもっており、現代的な主題とよく格闘している。 展開に疑問はあるが、そのこころざしとクリスティーナ・リッチの演技に星を献呈する。 貧乏な中年男のラザラス(サミュエル・l・ジャクソン)は、アメリカは南部の田舎で農業を営んでいた。 かつては酒場でブルースを歌っていたが、今ではそれも止めている。 真面目な性格が妻に嫌われて、妻は弟と浮気し家を出てしまった。 それが彼の心に傷をつくった。
子供の頃に、義父から性的な虐待を受けたレイ(クリスティーナ・リッチ)は、セックス依存症になっていた。 彼女はボーイフレンドのロニー(ジャスティン・ティンバーレイク)と出会って救われた。 しかし、その彼が軍隊に入って、出兵してしまう。 セックスの禁断症状に悩む彼女は、手当たり次第に男を呼び込んだ。 出征兵士の恋人が、見さかいなく男遊びをしていれば、事故が起きないほうがおかしい。 案のじょう彼女は殴られて、下着姿で路上に放置される。 怪我をしているレイを見つけたラザラスは、自分の家に引きとり彼女を介抱する。 しかし、レイのセックスへの執着は凄まじい。 彼はレイの腰に、太い鎖を巻いて逃げ出さないようにして、彼女と向き合う。 ラザラスは妻に逃げられて、人生に希望がなくなった。 レイはセックス依存症。 ロニーは騒音恐怖症で、軍隊を1週間で除隊になる。 ラザラスの友人である牧師も、神に仕えながら、内心は迷いごとだらけである。 心に傷を負った人間たちが、正常な状態へと戻ろうとする格闘を描いたものだ。 心の傷とは個人的なものであり、 その原因が社会によって生みだされたものであっても、個人が引き受けざるをえない。 誰にでも心の傷がある。 それがこの映画の前提になっている。 この前提については異議はない。 誰でもが心に傷をもつ現代、みな密かに悩み病んでいる。 それが麻薬だったりすれば、犯罪だから社会が対応する。 しかし、セックスだったり離婚だったりすれば、個人が引きうけ人間関係が破綻するだけである。 個人的な苦しみであっても、やはり辛さに変わりはない。 アメリカの南部はいまだに土着的で、古い価値観がはびこっている。 農業に従事する人間おり、宗教が生き、狭い地域社会がものをいう。 共同体の暖かさがあるはずだが、そんな中でも悩む人間はいる。 しかし、この映画に対しては、個人的な悩みを解決できるのか、または解決しても良いのか、という疑問がのこる。 誰とでも寝てしまうレイを、セックス依存症という病気だととらえる。 相手かまわずというと、恐ろしく聞こえるが、レイは手軽に男を誘うだけだ。 彼女は道行く男に襲いかかるわけではない。 彼女は男が欲しくなれば、テロン(デヴィド・バナー)を呼びだす。 ところで、性的な欲望が高まれば、女性を買いにいく男はいるだろう。 しかし、女性が性的な欲望を満たすことは許されずに、病気だと見なされる。 決まった相手とだけセックスをするのが、正しいものだと映画は考えており、 それから逸脱するレイを治療対象とみなしている。 治療のためには、鎖で監禁することが肯定されている。 貧乏な黒人ではあるが、中年男性という社会的な正義の体現者が、病気(?)の女性の治療にあたるのは許されるのか。 だから、それを直そうとするのは理解できる。 しかし、社会のほうを肯定することに、無前提的な正の価値がおかれ、 逸脱する人間は治療対象=悪だと決めている空気を感じる。 不特定の男性と寝る女性は病気=悪で、治療対象なのか。 疑問である。 騒音恐怖症のロニーと、セックス依存症のレイを結婚させ、2人の問題を解決しようとする。 しかし、結婚はセックスの相手を固定するだけだ。 レイがほんとうにセックス依存症で、無限にセックスを求めるなら、 男の勃起能力には限界があるから、ロニー1人の身体では対応できないだろう。 もちろん映画製作者たちだって、結婚によって解決するとは思っていない。 だから、不吉な将来を予感させるエンディングである。 ただ、2人は病気と何とか付き合っていくことができるだろう、といっているに過ぎない。 個人的な救済の次元で見れば、この映画が言うとおりであろう。 問題を個人的な解決に追い込んでしまう構造は、精神分析のカウンセリングと同じ手法である。 社会的に解決するには時間がかかり、それまで個人は何ら楽にならない以上、 こうした解決方法が重んじられるのだろう。 それが判るだけに、星を献呈せざるをえないのだが、価値観として2人がこぼれ落ちてしまうのを、防ぐことができない。 騒音恐怖症、セックス依存症、浮気と離婚、そして神の不在、 こうした社会的な不適合を、社会的な適合に変えることは良いことなのだろうか。 騒音に耐性をもってしまうこと、セックスを核家族内に閉じこめてしまうこと、 などなどは再考されても良いのではないか。 不適合とは社会の少数者であるが、少数であっても間違いではないし、悪でもない。 人を愛する気持ちを何よりも大切にし、 映画製作者たちが、ブルースに愛着をもっているのは伝わってくる。 きっちりとした問題意識に支えられた映画で、真摯な姿勢には好感をもつが、 何だか割り切れなさも残る。 古い価値観にたったままで、きれい事に過ぎるということだろうか。 2006年のアメリカ映画 (2007.9.13) |
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