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愛は地球を救う、が主題だろうか。 前作「ヘドウィグ・アンド・アンクリーインチ」は、監督自身の人生が投影されて、 切々と訴えるものがあった。 しかし、自分の体験だけを描き続けるわけにはいかないから、 2作目はどうしても観念で撮らなければならなくなる。 すると主題の先鋭さや根底性が求められる。 時代が表現者の感性を追いこしている。 やや時代遅れな感じがする。
場所はニューヨーク。 若い男女が、といっても30歳代もいそうである。 彼(女)等たちが、人間関係の手応えを求めて、呻吟している。 そして、性的な快感が人間関係と、完全に重なるべきだという、強迫観念に苛まされている。 この映画には、どんな欲望も肯定されるべきだ、という大前提がある。 どんな人間同士でも、愛し合うことが許されるべきだ。 これは今では当たり前の前提だろう。人種、性別、年齢を越えて、愛情関係が成立することは、もはや常識になっている。 3人での関係であっても、当人たちが同意すれば、それも許されるだろう。 しかし、愛し合う関係にあっても、愛による充実感があることは保証されない。 愛は関係性の始まりかも知れないが、愛が関係の質を保証するわけではない。 ましてやセックスを支えるのは、愛ではなしに健康な肉体である。 精神と肉体が一致する保証はないのに、この監督はそれを判っているのだろうか。 彼女は絶頂感を探している。 またゲイのジェームズ(ポール・ドーソン)は、ジェイミー(P・J・デボーイ)と愛し合っていながら、何か不足感がある。 ジェームズは虚無感に襲われて、死を意識している。 そのため、遺書としてビデオを撮っている。 2人に近づいてきた美男のセス(ジェイ・ブラナン)を、ジェイミーに引き合わせて、それを切っかけに、自分は自殺を図る。 ジェームズとジェイミーの部屋は、カレブ(ピーター・スティクル)から覗かれて、 写真を撮られていた。 しかし、カレブが撮っていたのは、彼等にたいする憧れからだった。 カレブは自殺を図ったジェームスを助け、自分の部屋につれてくる。 サドの女王を演じるセヴェリン(リンゼイ・ビーミッシュ)も、人間関係に飢えている。 この映画に登場する人物は、全員が普通の人間関係を持っている。 友人もいるし、配偶者もいる。 しかし、何か満たされない。その飢餓感が、ジャスティン・ボンドが主宰するショートバスという、アジールへと誘うことになる。 この映画は、人間関係への飢餓感が、普通ではない資質、つまり少数者からくると言っている。 登場する人物の多くが、ゲイだったりするから、少数者と思うのだろうが、 この前提は根本的に間違いだろう。 監督自身がゲイであるため、ゲイ差別に苦しんできたから、この映画を撮ったのかも知れない。 しかし、すでにゲイは市民権を得た。 少数者だから差別されて、その被差別感が人間関係を歪めるという構図は、すでに時代遅れである。 少数だから人間関係に飢えるのではなく、 人間存在が土地や物といった、固形物に基盤をおくのではなく、 無色透明の情報におくようになったので、人間関係を体感できなくなったのだ。 それが飢餓感を呼んでいる。 かつてはゲイであることによって差別されたが、同時に差別されるという手応えがあった。 しかし、今ではゲイも市民として認められて、差別されるという手応えがない。 あれほど強力な圧力をもって迫ってきた社会が、いまでは何の強制力も示さない。 ゲイだって、だからどうしたの、と反感すらもってくれない。 もはや社会は関係をつくり、維持する契機を与えてはくれない。 すべて自分の心の持ちよう次第である。 そこで性的な快楽だけは、まちがいなく体感できると思っていたが、 それも実は肉体そのものに内在するのではなく、関係の産物だった。 この監督は、飢餓感を少数者である被差別感に求めているが、 いまや少数者であろうと多数者であろうと、人間関係の飢餓感はきわめて強い。 大成功した実業者であろうと、出世した政治家であろうと、人間関係の飢餓感に苛まれているのは、まったく同じである。 健常者を普通学校へ運ぶのが、大きな黄色いスクールバスであるのにたいして、 障害者たちを養護施設へと運ぶバスを、ショートバスと呼ぶらしい。 たしかに、障害者は施設に隔離されているが、この映画登場する人たちは、少数者かも知れないが、社会的に隔離されてはいない。 今まで少数者が、差別されてきたのは事実だろうが、 被差別の克服には、アジールへ逃げ込むことではない。 封建支配のような圧倒的な圧力の前には、アジールへの避難も仕方ないだろうが、 今やゲイたちは市民権を得た。 けっして少数者ではない。 むしろアジールの解放こそ、豊かな人間関係への道だろう。 途上国では50歳になれば老成できるが、先進国では何歳になっても、老成できない。 情報社会では、加齢により肉体は衰えても、精神は歳をとることができない。 精神的な飢餓感は、神を殺した豊かな社会での原罪だろう。 それにこの監督は気がついていない。 2006年のアメリカ映画 (2007.8.28) |
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