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妻が騙されて姦通したのを、武力によって復讐するという、極め付きの男尊女卑の話である。 藩主の毒味役だった三村新之丞(木村拓哉)が、毒にあたって盲目になってしまう。 彼は職務遂行上で、身体の障害をおう。 労災制度などなかった時代、盲目になった彼は、職を失う危機に直面した。
田畑で労働しない武士にとって、失業は食えなくなることだ。 何としても避けたい。 藩の高官の島田藤弥(坂東三津五郎)と面識のあった妻の加世(檀れい)は、 家禄を維持して貰うよう藩主に働きかけてくれと、夫に内緒で頼みに行く。 こころよく引き受けた彼は、ひきかえに加世の身体を要求した。 彼女は半ば脅されたかたちで、犯されてしまった。 しかし、彼女はその後も、2度3度と呼び出されては、肉体関係を続けていた。 島田との肉体関係に、一抹の後ろめたさを感じながらも、 彼女は何喰わぬ顔をして、盲目となった三村との結婚生活を続けていた。 やがて加世の浮気は、叔母(桃井かおり)をとおして、三村の知るところとなる。 三村は、浮気の事実を確認すると、ただちに離婚する。 そして、家禄が維持された真相を確かめる。 すると、島田の働きによるものではないことが判明する。 加世は騙されただけで、身体を提供したことは何の役にも立っていなかった。 それを知った彼は、恨みを晴らすべく島田に果たし合いを申し込む。 盲目の三村に敗れた島田は、相手を告げぬまま、武士の一分を守るために自殺する。 事件のほとぼりが冷めた頃、加世が飯炊き女として、三村の元に雇われて、映画は終わる。 かつて妻だった女性が、飯炊きの下女となって、二人は幸せに暮らしましたという。 これがハッピーエンディングだろうか。 もし、加世が島田との関係を後悔しているなら、彼女は一生負い目をおったままだろう。 何という残酷なエンディングだろうか。 この映画は、日本人のメンタリティーというか、日本人的な人間関係を背景にしている。 それは、好ましくない真実を知らせないことが、相手への思いやりだと考える性癖である。 加世は島田に相談に行くのを、夫に言えば反対するに決まっているからと、夫に内緒で行く。 まずこれが、夫に対する最大の侮辱である。 しかも、彼女には侮辱している認識がない。 家禄を維持するのは、当時であれば男性の問題であり、当人をさしおいて行くのは、本人を無視した行為で言語道断である。 最初の行動が内緒だから、次の出来事も夫に伝えることができない。 夫のために身体を開いたと考えているせいか、 加世は夫を裏切っていることに、まったく悩む様子はない。 島田とはセックスという具体的な事実が積み上げられ、 三村とのあいだには虚構の関係が築き上げられていく。 加世は島田と逢引きしながら、三村の世話をするという日々を過ごす。 心と身体がバラバラである。 しかし、こうなる原因は最初にまかれている。 三村が最初に目が見えないことに気づいたとき、 彼は妻に心配をかけまいとして、見えないことを隠したまま告げない。 加世はうすうす察知して、盲目であることを確認すると、三村はしかたなく追認する。 今度は盲目は不治であることを、医者が加世にいうが、 加世は不憫に思って、医者の言葉を三村には伝えない。 しかし、三村は下男の徳平(笹野高史)から、医者の言葉を知る。 日本人にとって、親密な人間関係とは何なのだろうか。 もっとも親密な人間関係とは、苦楽を共にすることではないのだろうか。 楽しいことはもちろん、苦しいことをも共有してこそ、親密な関係だと言えるのだろう。 にもかかわらず、苦い真実は伝えない。 しかも相手のことを思いやって、心配掛けさせないために知らせないと言う。 ふつうはこうした関係を、<不信>と呼ぶのではないだろうか。 それなら家禄の維持、つまり収入の確保は夫婦2人の問題である。 妻の一存だけで夫の世界に踏み入れるのは、 夫を無視した行為であり、してはならない行為である。 夫に相談せずに夫の世界に踏み込んだことだけで、 つまり夫を無視したことだけで、夫婦関係は破綻したと言っても良い。 夫に相談すれば、反対するのが判っていたというが、それなら島田のところに行くのは止めるべきだった。 万が一、無断で行って犯されたことまでを、仕方ないと認めたとしても、 加世は志と異なった結果に悩むはずだ。 そこで2人の関係は修復されるだろう。 しかし、この映画では加世はまったく悩まず、その後も嬉々として島田と会いに行く。 出会い宿の女将は、遅れてきた島田に、加世がいつもの部屋で待っていると言っている。 慣れたものだ。 三村や加世が、夫婦愛とセックスは別物だと考えているなら、まったく問題はない。 セックスは誰とでも可能だし、愛情がなくてもできるから、 島田の関心をひくためにセックスをしただけで、加世の変わらぬ愛情は三村にある、 というのも多いにあり得る。 たかがセックスしただけでは、愛情はびくともしない。 事実、江戸時代の性習慣はそうだった。 しかし、この映画の倫理は、妻が夫以外とセックスをするのは許さない。 妻が寝取られたことを知った三村は、恨みを晴らすために復讐の果たし合いをする。 島田の腕を切り落としたことによって満足した彼は、加世の浮気を許すという。 武士のルールによれば、 浮気の相手だけでなく、妻も殺すはずではなかったのか。 浮気を許すのなら、腕を切り落とすか否かにかかわらず許すべきだし、 相手への復讐心を満たしたので、妻の浮気を許すというのは、どういう心理なのだろうか。 三村が失明して、一家に収入がなくなる危機は、夫婦の問題だったはずであるが、 2人が協力して乗り越えたとは思えない。 これでは困難事を克服したことが、関係性の強化につながらない。 だから、似たような状況になれば、加世は内緒でまた同じことをするだろう。 そのたびに三村が復讐して、加世を許すというのだろうか。 小児的な自己満足も甚だしい。 本人に正確な情報を伝えなければ、 本人は真相を知らないまま困難事に立ち向かうことになる。 事実を知らないまま、困難と闘うのでは、最初から負けるのが判っている。 少なくとも本人には、充分に戦った充実感はない。 「イカとクジラ」などを見ても分かるように、 アメリカ映画は小さな子供に向かっても、困難な状況を何とか判らせようと、必死で説明する。 同じ家族の一員であれば、全員が知る必要がある。 全員が正確な状況認識で困難に立ち向かってこそ、親密な家族だと言えるのだ。 思いやって伝えないと言うのは、人格無視である。 加世は浮気がバレたから、家出したのであり、 浮気そのものへの自責の念で家出したのではない。 しかし、浮気をした加世は、自分で贖罪の行為をしたわけではないのに、三村から許される。 意志を持って許すのは男性で、何もせずに許される女性は、 まるで意志のない物扱いである。 この映画は、加世という女性に三村と同じ人格を認めておらず、まったくの女性蔑視そのものである。 この映画の状況を男女反対にしたら、奇妙なことになる。 夫が妻を救うために、イヤイヤながら浮気した。 それがバレて、妻たる女性は憤り、男性と離婚した。 離婚した女性が、相手の女性に復讐した。 そこで女性は気がすんだから、元の男性を許して、ふたたび結ばれる。 こんなことがあるだろうか。 不思議なメンタリティーの横溢した映画で、見るに耐えなかった。 2006年日本映画 (2007.1.9) |
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