ニュージャージーに住むの女の子ヴァイオレット(パイパー・ペラーポ)が、作曲家を夢みてニューヨークにでてくる。 自作の曲をテープに入れて売り込むが、どこも相手にしてくれない。 アパートには泥棒に入られるし、都会は冷たかった。 作曲家への道は遠い。 たまたま応募した「コヨーテ アグリー」というバーに、バーテンとして採用される。 若い女主人が経営するそこは、何かを夢みる女の子たちが独立までを過ごす場所だった。 と同時に、大勢の酔客を相手にせねばならない厳しいビジネスの場でもあった。
この映画は、女の子の夢がかなうプロセスを描いた、一種の青春歌謡の出世物語である。 21歳のヴァイオレットは、恋人や父親・友人らの応援を得て、舞台恐怖症を乗り越え、ソングライターからシンガーソングライターへと脱皮していく。 特別に有名な俳優がでるわけでもし、主題がシャープなわけでもない。 実在のバー「コヨーテ アグリー」を舞台に、現代の女の子の夢を描いただけである。 実際の音楽業界は、あんなに甘っちょろいものではないだろう。 しかし、バーのカウンターの上で繰り広げられる、女の子たちのパフォーマンスは痛快である。 映画のなかで使われている歌もなかなかによく、B級映画であっても最後まで楽しく見ることができる。 女の子の出世物語と言ってしまえばそれまでだが、時代はやはり変わっている。 恋人との関係の作り方や、女性の社会的な活動の肯定のされ方など、かつての映画とは随分と違う。 ヴァイオレットは自分から恋人の身体を求めていくし、女性はもはや待つだけの存在ではない。 恋人に助けられはするが、女性の自立が基本路線としてあり、男女は互角の描かれかたをしている。 また、主人公の女の子はスタイルこそ良いが、とりわけ美人でもないし可愛いわけでもない。 主人公として必要なのは、個人としての才能であり、努力する能力である。 美人が主人公を演じる時代は、終わっていることがはっきりと判る。 一人娘が父親の面倒を見るのは、小津安二郎の「晩春」を思い出させるが、親子の関係が言葉によって決着をつけられていくのは、やはりアメリカ映画である。 アメリカ映画には、父子物というのは多いが、母子物というのは少ない。 母子関係は出産という動物的な自然に属し、無言の関係が可能である。 それにたいして、父子関係は自動的には自覚できないから、その確立には作為と意識的な愛情表現を必要とする。 それは父という男性が、表出された文化を象徴するものであり、動物的な自然の関係に頼れないものだからだろう。 母が歴史貫通的な概念であるのに対して、父とはきわめて近代的な概念なのかもしれない。 「コヨーテ」とは、おそらく「Call off your old tired ethics」の頭文字をとったもので、時代遅れの倫理は捨てろ、という意味だろう。 そういえば、コヨーテという名前の女性の権利団体が、アメリカにある。 2000年のアメリカ映画。 |
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